大阪市住吉区。事務所として借りたシャッター付きの小さなガレージに、当時21歳の小笹公也(現代表取締役会長兼CEO)と見習の職人1人、愛車を売って得た中古のライトバン1台。独立資金は40万円。オンテックスの歴史はここからはじまる。
17歳で塗装職人になり21歳で独立を果たした小笹は、独立後、親方からの孫請けを中心にしながら、徐々に受注先を広げていく。独立3年目の昭和62年には、最初の本社となる3階建ての事務所兼住居が完成。職人も20〜30人に。役所関係の仕事も手がけるようになり、昭和63年に「株式会社オザサ」を設立する。大阪では平成2年に花博が開かれるなどバブル経済に入り、仕事はいくらでもあった。

仕事の質はダントツで高く、職人の腕はどこよりも確かだった。しかし、順風満帆だった経営もバブル崩壊とともに風向きを変える。不景気の波は建設業界にも押し寄せ、取引先のハウスメーカーが倒産し、手形が不渡りになったことも。

当時、賃貸マンション大手のリフォーム子会社の営業を代行していたため、契約を取り工事を完了すれば、代金が振り込まれていた。ところが、その子会社から一向に代金が振り込まれない。結局、親会社のオーナーが事情を察し、全額を回収することはできたが、それ以来そことは縁を切ることになる。
「下請けは泣かされるばかり」と、塗料大手の特約施工店として元請けをめざした。ところが、特約店は競争相手が多く、値段の勝負になってしまう。そこで小笹が考えたのが、自社ブランド品の開発。セラミックの骨材を混ぜた塗料を吹付け、石材を張り付けたように仕上がる技術を、一般住宅向けにできないか。小笹の模索がはじまる。

その結果生まれたのが、自社品第1号となる「オザキャスト」。早速、営業部隊を作り仕事を取りにいく日々。小笹自身も見本を持って営業に回った。戸建て住宅は見渡す限りあり、塗替え時期は、一目で分かる。はじめは防水と塗装のみだった仕事も、「サッシを入れ替えて」「屋根も葺替えて」などといったお客様の要望に応えるうち、リフォーム全般を手がけるようになっていった。
風呂やキッチン、バルコニーなどのリフォーム全般を手がけるようになった頃、さらなる製品開発のため、関西大学と委託研究契約を結ぶ。製品開発には多くの試験が必要であり、設備を使うためには大金がかかる。機器が充実し、教授の助言ももらえる大学との連携の効果は大きかった。コンクリート劣化の測定試薬や断熱材、犬猫の忌避剤など4種の製品が生まれた。
さらに業績を伸ばし、平成9年に5階建ての新本社ビルが完成。平成12年に「OZASA NEW TECHNOLOGY EXCELLENCE」の頭文字を取って、社名をオンテックスに変更。またその年には、塗装工事会社では、日本初※となる製・販・装(製造・販売・塗装)を一貫体制で行うことで、効果を得られる「外断熱E‐テックスプロヒート工法」を上市し業界の話題となる。しかし、平成18年度中の株式公開に向けて準備中だったが、思いがけないことが起る。
※ 2001年当時 当社調べ

株式公開に向けて準備を進めていた平成17年。リフォーム詐欺が社会を騒がすようになっていた。減収などの直接的な影響は少なかったが、市場全体が冷え込み、株式公開を見送ることに。信頼できる職人の養成の必要性を痛感することになり、平成18年4月に大阪府和泉市に「オンテックス・テクニカルスクール」を開校。
これまでに数多くの職長が育っている。職長が育てば、多くの職場に振り分けることが可能になるため、協力業者への外注比率を下げ、信頼性を高めていくことができる。めざすは、自社技能士100%。
社内では若手の発想を重視し、事業の多角化を進めている。温泉付きマンションのアイデアから転化したスーパー銭湯も堺市の1号店に続き、平成20年5月に貝塚市で2店目をオープン。

事業の多角化と並行し、自社ブランド品開発にも益々力を入れている。遮熱塗料「サーモテクトシリーズ」、外壁外断熱「E-テックスプロヒート工法」など、美観修繕だけでなく、省エネ・環境対策にも良い商材を積極開発。
平成18年11月にはこれまで分散していた各部署の機能を集約させ、コスト削減と業務運営の効率化を図る為、大阪の南玄関口となる湊町再開発地区に本社となる「オンテックス難波ビル」を建設。
平成20年3月からは、中古住宅のマンションのリノベーションやコンバージョンにより、不動産価値を高める提案を行うバリューアップ事業を始めた。
生活総合支援企業として、オンテックスはさらなる成長をめざします。







